更新:2023年11月1日

見出し写真=簗川一里塚と宮古街道

 

使用した国土地理院地図の加工は山野目が行った。

すべての著作権は筆者に帰属します。

A, 宮古街道 盛岡市内~区界まで

 盛岡の鉈屋丁の十文字(実際は三叉路)で遠野街道と分岐した宮古街道は、上小路を経て、川目村の砂溜の石碑群(道標がある)で白滝、八木田、高畑、大倉峠を経て簗川村に至る本道と、宇津野、道違、福名湯(ブナト)を経て、川目、戸中、小屋野、宇曽沢から簗川村に至る、文政六年藤田武兵衛が開削した”新道”に分岐する。双方ともその正確な道筋は具体的にどこをどのように通っているか判明している部分もあるが、かなりの部分は精確には不明である。そこを古資料、絵図、文書、さらに戦後直後の航空写真、Google earth proの衛星写真などを駆使し、現地での聞き込み、踏査を行い、消滅していない部分は実際現場で見て判断し旧道を特定し、その正確な道筋を報告します。

 

1,宮古街道 古道(大倉道):砂溜~大倉峠、水沢口

 鉈屋丁の十文字で遠野街道と別れた宮古街道は、上小路を東進し、砂溜に至ります。砂溜の西側から東に続く道筋は河岸段丘で簗川の川原の高さから一段高くなった場所を街道は往きます。簗川の出水時への道が壊されないための道筋の選定と思われます。砂溜の石碑群の道標のところで古道と新道が分離する追分になっています。

 ”雑書”の記録によれば、簗川に沿った新道ができて利用されるようになった後も、たびたび洪水などのために新道が使えなくなるため、

古道の八木田の坂二か所(赤坂、のり木坂)、高畑の坂一か所(栗の木坂)を改修し、大倉峠を越える古道がいつでも歩けるように整備するよう指示がでています。

A-1)砂溜(さだまり)

 上小路から来た宮古街道は

ここの追分=この石碑群から左へ行くと宮古、右に行くと川目、となっていましたが、

文政六年右への道が新道として宮古に行く道になりました。

A-2)白滝付近を舗装はされているものの古の道がのこり、ここを八木田に向かいます。


A)八木田一里塚:

今旧道は住宅となっているが、左の東塚と右にあり消滅した西塚の間、正面の住宅の方向から旧街道はカメラの方向に来た。住宅の向こう側には旧道が残っている。

B)八木田の赤坂東側の石碑:

A-2の藪から少し東にきた所になる。八木田からかつては山の中を来た街道は”赤坂”を越、この石碑そばをすぎ、現在の競馬場北側を通り、蜂が沢、高畑に至った。

A-2)”赤坂”と思われる緩やかな坂の峠を少し下り、北側の丘陵の麓に、薮中に旧道が残っている。そこを行くと、右にカーブするところが掘割道となっている。その少し先はすごい薮で進めなくなった。



A-1)盛岡競馬場北側の深沢山南側にこのような掘割のある旧道が残る。一部は二筋の並行した道となり、馬匹の列がすれ違えるようになっている。

B)高畑の市道のリンゴ組合の畑の北端に残る掘割道がある。これはどの記録にもなく、地元の刀自が知っており、案内していただいた。

200m東西に残るがその両端で道は消滅する。

 

C-2)高畑一里塚から東に旧道を進むと部落の中の道にで、その向の民家の下の土手に旧道跡が残っている。そこが

大倉峠方向への旧道に繋がっている。

A-2)競馬場北側の深沢山頂上のすぐ南を通過した旧道はニラ台”(旧道が市道脇に残り、その傍に石碑:庚申塔がある)と言われる峠筋をすぎ、一部旧道が残る市道を南東に行き蜂が沢の三叉路から東に往く。ニラ台という名称は近隣で聞き込みしても、ご存知の方はいなかった。現在高畑に属する上蜂が沢は、昔は高畑ではなかったとのことのようです。

C)高畑の一里塚:

当然ながら塚の間を道は通るが、現在そこに道はない。しかし藪の中を追いかけると

旧道跡は残っているのを見つけられた。


(2023年10月22日大倉峠踏査)

 高畑(たかばたけ)の部落の東側に、古のままと思われる旧街道が残っています。そこを東に往くと沢の小さな落合にきます。そこを曲がらずまっすぐに東南東から来る沢筋の林道化した街道を徐々に登りにかかります。上に高圧線が横切る場所で道は二又となり、右の狭い掘割状の道を登って行くのが大倉峠への旧街道です。そこから峠を越え、大倉家の”餅屋”さんがあった所までは、ほとんどが古の街道そのものが残っています。峠近くには堀切でS字状となった場所もあり、二筋の旧道が並行し、馬のすれ違いをしやすくするように考えられた所も残っています。峠近くは登り下りは強くなく、崖の縁、長根などを往き、そうした所で少し高くなった峠を越えると高圧線の鉄塔が立つ所に達します。その傍の斜めになった道は一見旧道らしくなく、藪中を探すと、その道の4-5m南側の藪の中に旧道跡がみられました。その斜めの道は高圧線の点検道と思われます。その辺りから下りが少しづつ斜度をましてきます。少し下ると大倉峠の一里塚に達しますが、塚をとりまくように、二筋の道=一つは崖の縁をくる主道に見えるもの、もう一つは掘割となり塚の北側を回り込むようになった道です。一里塚は一基しか残存しませんが、もうひとつがどこにあったかは謎です。少なくとも崖縁の主道と思われる道を挟んで南側は崖で、塚をつくる余地はありません。塚から100mほど下ると、舗装道路にでますが、そこを横断すると立派に旧道が残り、下っていきます。徐々に結構な斜度となりますが、九十九折れにはならず、まっすぐに近い感じ、少々の曲がりはありますが、で下っていきます。すると突如作業道にでますが、それを突っ切って森の中に草生して旧道があり、餅屋さん前に達します。そこからは舗装化された旧道をゆっくり曲がりつつ下ると、簗川沿いの宮古街道新道と水沢口で合流、500mほど北上すると曽利田の一里塚への橋にでます。その辺りに宿屋さんが最近まで残っておりましたが、現在は建物もすっかりなくなりました。橋を東にわたり簗川の部落に向かいます。


 

2)宮古街道・新道:砂溜、道違、宇曽沢、簗川

 文政六年、五戸の商人藤田武兵衛が、藩に願い出て自費で難路であった宮古街道の改修というより新たなルートを開拓し、開削する工事を行いました。その際盛岡から宮古に向かう際の、まず第一の難所である大倉峠を回避するため、これも難所であった簗川沿いの特に

川目と簗川の間の宇曽沢の東側の川筋に新しく道を作り、簗川に至るルートを開拓しました。また、区界を越えて閉伊川沿いに入った街道は、川の傍まで大岩などが迫り、崖っぷちを何か所にもわたって歩かなければならない難所が数多くあり、五十集集などの馬がかなり転落することがある難所の連続でした。その閉伊川沿いの道筋を避け、簗川村から栃沢、区界と行かずに、飛鳥口から飛鳥に行き、嘉倉沢(調査により特定しました)沿いを”烏長根(カラスナガネ)にあがり、岩神山と兜明神の間のタアを東に抜け、弥五郎沢(これも筆者の調査で特定しました)頭(かしら:発音するとカッシャ)から松草沢の峠、さらに青松葉山、サクドガ森、外山、害鷹森、姫子松頭(これも調査で特定)、さらに長根を猴候舞山にいたり、そこから念仏森南側の堀谷ノ沢から刈屋と往く、まったく新たな長根を往く比較的平坦で、水害の心配がない道を開拓しました。当然冬季は積雪で使用はできず、年間に半年程度しか使えなかったと思われます。

 現在鋭意この道筋を調査・踏査を進めておりますが、判明した分からここに記録していきたいと思います。

 

 まず簗川沿いの新道の道筋から報告していきます。

絵図に残された簗川沿いの地名などもかなり特定してきており、現在ほとんどの方が知らないそうした近世に使われていた地名なども

お楽しみください。

A-1)砂溜:この石碑群から左は宮古街道古道、右の叢が新道で、川目、宇曽沢を経て簗川村で古道と合流する。

 

A-3)右手(西)からくる旧道は左の馬頭観音石碑前を左手=南東方向に河岸段丘上を往く。わずかに旧道跡が残る。旧道はこの石碑の向こう側を通っていた。

A-2)砂溜の石碑群から南東に

簗川河原から一段高くなった段丘の端に旧道が残る。

赤線道路になっている。

A-4)二反田付近で旧道は

現在の国道106号線付近に河岸段丘から少し下がる。


川目の“天狗森”は宮古市史編纂室蔵の”閉伊川街道図”によれば、簗川の南ではなく北側に描かれている。そうすると新道を歩いてゆくと

大きな岩を削って道を通した場所が”天狗森岩”と記されているのに納得できるような気がする。

A)二反田付近は住宅街となり

旧道跡はほとんど残っていないが、古老にの話、明治四年の村絵図で、蓋で塞がれた水路の山側=写真の左側を旧道が通っていた、とのこと。

C)B)から一段高い山の腰を往く旧道は、宇津野地内で少し下る。その地点に馬頭観音などの石碑が並んで立っている。そこからは河岸段丘の地形を南下し道違に至る。

D-1)道違の畑の草むらに道標が立っており、ここから福名湯(ブナト)と簗川への道が分かれてゆく。

B)鑪山に至ると、旧道は赤線道路として草地の中に道跡として存在した。向こうの住宅の山側を往く。

D)旧道跡は確定できていないが、概ねこのあたりを往く。

E)旧川目小学校の裏手(福名湯向)の山の腰を往く。写真は大岩を砕いてそこに道を通してある。


 旧川目村の川目地区の一部には旧道が残っており、その脇に石碑も存在する所があります。そこから川に沿い舘、を経て戸中から、その東端にある新山堂そばをっとおり、小屋野、宇曽沢といき、宇曽沢の東側から、大岩と岩山の鼻が簗川に突出し江戸時代末期まで道を作れず、難所っとなっていた川筋に、簗川ダム建設で失われるまで所々旧道跡が残っていました。その川に突出する場所場所には、”宮古新道絵図”によればおのおの名前が付けられていて、その名称は上記の地図に特定したうえで記載してあります。尚子の岩場の名前は、はじめて確認記録できたものっと思います。徒歩と駄馬の移動からは、川に転落する危険のある道で、また水が出ればすぐに歩行困難となってしまうような状況であったようで、雑書の記録に、この新道が建築されてからも、水害でたびたび川筋の道が損傷するため、古道である大倉峠の道筋を常に整備しておくような記録がでてきます。峠の無い新道はそれなりに人馬の負担を減らしたと思われるものの、

水害で頻繁に被災し、水害を受けない古道の使用は継続していたと考えます。

 水沢口で宮古古道と新道は合流する。そこから簗川北岸を1km程度東行し、橋を南岸にわたり、簗川村に往く。橋を渡り100m程度で

曽利田一里塚に至る。現在の道路の西上、一里塚そばに旧道が残っている。その辺りは宮古街道の改修を記録した絵図によれば、湿地などの悪路であったとのことである。さらに行くと旧簗川村の中心地中村に至る。ここは宮古と盛岡を行き来する五十集衆が泊まる場所で

駅であった。元宿屋さんも残っている。中村地内の旧道は変化しており、絵図に描かれた道はあまり残っていない所もある。なつかしい

土橋もいくつか残っている。長洞神社の東側を通過すると旧道は川を渡り簗川南岸にゆく絵図記録があるが、現在は北岸をゆく。